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バトラーの理論:「ジェンダーは行為である」

ジュディス・バトラーは、1990年に発表した『ジェンダー・トラブル』で、これまでの性(セックス)と性別(ジェンダー)の区別を根本から揺るがしました。従来、セックスは「生物学的な性」、ジェンダーは「社会的・文化的な性役割」と説明されてきましたが、バトラーはこの分類そのものを問い直します。

バトラーが指摘したのは、「セックスもまた社会的な構築物である」ということです。
つまり、私たちは「男」や「女」という属性を固定された本質として受け取るのではなく、日常的に行うパフォーマンスによってそれを作り上げているのです。

ジェンダーは生まれ持ったものではなく、私たちが繰り返し演じる行為の積み重ねによって「男らしさ」や「女らしさ」が成立する。このパフォーマティビティ(performative acts)という概念は、現代のフェミニズム思想に大きな影響を与えました。

バトラーは「ジェンダーは固定されたアイデンティティではなく、私たちが日々演じている社会的な役割にすぎない」と言います。そして、私たちは日々の服装、振る舞い、話し方によって、自らを社会に向けて「男」や「女」としてパフォーマンスしているのです。

日本の「成(なり)」の概念──ジェンダーはどう見られるか

バトラーの理論を理解するうえで、日本の古典的な「成(なり)」という言葉が重要なヒントを与えてくれます。

「成」は『源氏物語』など日本の古典文学でも多く使われる概念で、「見た目・態度・振る舞い」を指します。
たとえば「女なり」「男なり」という言葉は、単に性別を指すのではなく、その人の立ち居振る舞いがどう見えるかを示しています。
• 「男なり」とは、男らしい服装や態度であること
• 「女なり」とは、女らしい仕草や話し方をすること

つまり、「成(なり)」は、他者からどう見られるか、どう読まれるかというパフォーマンスの一環なのです。この考え方は、バトラーの「ジェンダーのパフォーマティビティ」の理論と非常に近いものがあります。

日本文化のなかで、性別は「生まれつきの本質ではなく、外見や振る舞いによって成り立つもの」として認識されてきました。

ジェンダーのパフォーマンスの具体例

日常のパフォーマンス

日常生活で私たちは、服装や振る舞いを通じて無意識にジェンダーを演じています。

例1:服装

  • スーツとネクタイを身に着けることで「男らしさ」を演じる
  • スカートやワンピースを着ることで「女らしさ」を演じる

服装の選択は、ただの好みではなく、社会的に「読まれる」ための記号になっています。
たとえば、男性がスカートを履いたら「奇異なもの」として読まれ、女性がスーツにネクタイを締めれば「男っぽい」と評価されるのは、ジェンダーが外見による物語に基づいているからです。

例2:振る舞い

  • 丁寧にお辞儀をして話す女性は「礼儀正しい女性」と読まれる
  • 威圧的な態度で話す男性は「リーダーシップのある男性」と読まれる

これらはすべて、社会が期待する性別の物語を日々私たちが演じているということです。

「読む/読まれる」という視点

バトラーの理論と「成(なり)」を結びつけるもう一つの重要な視点は、「読む/読まれる」という関係です。

  • ジェンダーは「社会に読まれる」もの
  • 私たち自身も、他者をジェンダー的な視点で「読んで」います

たとえば、電車のなかで誰かが化粧をしていたら、「その人は女性だ」と無意識にジェンダーの読みをしてしまいます。
しかし、それは本当に「女性」という本質を指し示すものなのでしょうか?
化粧をする=女性であるという読みは、社会が作り上げた物語に過ぎません。

社会的物語としてのジェンダー

バトラーは、ジェンダーが「社会的な物語」に埋め込まれていることを指摘します。
この物語は、映画や広告、童話や教育など、あらゆるメディアを通じて私たちに刷り込まれます。

  • 女の子はピンクが好きで、おとなしいべき
  • 男の子は青が好きで、リーダーシップを発揮すべき

これらの物語は、私たちが生まれた瞬間から語られ、無意識に私たちの行動を規定します。

自分のジェンダーを自由にパフォーマンスするために

私たちがジェンダーを「自然なもの」と思い込む限り、自由は得られません。
しかし、ジェンダーがパフォーマンスだと理解すれば、自分自身の「演じ方」を変えることができます。

具体的なヒント

  1. 服装の選択を見直す
    性別を意識せず、自分が心地よいと思う服装を選ぶ
  2. 振る舞いのパターンを意識する
    自分が「らしさ」を演じている瞬間に気づく
  3. 社会の物語に批判的な視点を持つ
    映画や広告の中で「男性らしさ」「女性らしさ」がどう描かれているかを観察する

おわりに──ジェンダーの物語を書き換える

ジュディス・バトラーが私たちに問いかけたのは、「あなたが演じるジェンダーは、あなた自身が書き換えられる」ということです。

日本の「成(なり)」の概念も、ジェンダーが社会のなかで「読む/読まれる」関係によって成り立つことを示しています。

だからこそ、私たちは自由にパフォーマンスする権利を持っています。

自分のジェンダーという物語を、自分の手で書き換えていく。
その第一歩は、「私たちはみな、物語を演じている」ということに気づくことです。

ZINE

バトラーのような考え方を「社会構築論」的といい、構築主義といいます。それに対して、反対の立場は「本質主義」といって、男女には生物学的性差があり、それが本質だということをいうのです。

ただ、数はすくないとしてもインターセックスの人達は存在するわけであり、脳の性差まで考えるとそれなりに数が多い可能性はあります。そもそも数の問題ではなくって質の問題だと考えると、生物学的性別も男女の二元論では語れないのではないかとおもいます。所詮,生物「学」という学問の定義であることこれ自体が社会構築論的にいまもなお進化形で議論されているものでしかないのです。

社会において、人間は生物学的性差によって判断されるのではなく、社会的性差によって読み取られます。それは2025年のいまの社会通念上のパーフォーマンスでしかない。江戸の社会が、「成り」によって認識されていたとおり、その人らしさが社会のあり方であればいいなと思います。

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