賃金が支払われない労働の総称。家事、育児、介護、看護、地域活動などが含まれる。誰かがやらなければ生活が回らない仕事でありながら、対価が発生しない。この語が問うているのは、その「発生しなさ」がどこから来るのかということである。

同じ内容の仕事でも、外注すれば料金が発生する。食事の支度、掃除、送り迎え、介護。家の中でそれをやると、値段は消える。労働の中身が変わったわけではない。貨幣が介在するかどうかで、線が引かれているだけである。

そして、誰がやっているかには偏りがある。内閣府の2021年推計では、一人当たりの家事活動の貨幣評価額は、男性が約60万円、女性が約194万円。3倍を超える差がある。時間の使い方の差が、そのまま金額に換算されて現れている。

1970年代の家事労働論争は、この不払いが例外ではなく仕組みだと論じた。人は働いて疲れ、食べて眠って、翌日また働ける状態に戻る。この回復の作業を誰かが担っているから、賃労働が毎日成立する。にもかかわらず、その担い手には賃金が支払われない。家事が「愛情」や「自然な役割」と呼ばれるとき、対価の話は口に出しにくくなる。呼び名が、支払いの問題を覆い隠す。

同じ時期、家事労働への賃金支払いを求める国際的な運動も起きた。実際に賃金が支払われることよりも、「これは労働である」と名指すこと自体に、運動の力点はあった。

支払われないことの影響は、後になって現れる。年金の受給額、離婚時の財産分与、事故の際の逸失利益の算定——人生の後半で立ち上がってくる差の多くは、この不払いの蓄積である。

なお、この労働は国民経済計算(GDP)にも算入されない。市場を通らないサービスは生産の範囲外とされているためで、内閣府の推計では、無償労働の規模はGDPの2〜3割に相当する。

値段をつければ、可視化はできる。だがケアを市場の論理に引き渡すことにもなる。値段をつけずに、それでも正当に評価する方法はあるのだろうか。

→ケアの倫理(ethics of care) →不可視化されてきた労働 →逸失利益の男女格差 →マルクス主義フェミニズム/社会主義フェミニズム →ケアと女性

参考文献

この記事を書いた人