女性への抑圧と自然の搾取を、同じ構造から生まれたものとして捉える立場。1974年にフランスのフランソワーズ・ドボンヌが用いた造語とされる。
基本にある見立てはこうである。近代西洋の思考は、精神と身体、文化と自然、男性と女性という対をつくり、前者を後者の上に置いてきた。自然は支配し利用する対象とされ、女性は自然の側に配置された。だから環境破壊とジェンダー支配は、別々の問題ではなく一つの世界観の二つの現れである、と。キャロリン・マーチャントは、科学革命の過程で自然が生きた有機体から機械へと読み替えられていった経緯を追い、この転換を「自然の死」と呼んだ。
インドのヴァンダナ・シヴァは、緑の革命や種子の企業支配に抵抗する農村女性の実践から議論を組み立てた。マリア・ミースとの共著『エコフェミニズム』は、南北の格差と生活の再生産を軸に据えている点で、いまも参照される。
批判は早くから出ていた。女性を自然と結びつけること自体が本質主義であり、ケアや共感を女性の性質として固定してしまうのではないか、という指摘である。日本では1985年前後に、青木やよひと上野千鶴子のあいだで「エコフェミ論争」が交わされた。母性や自然との親和性を積極的に評価する立場と、それを近代の性別役割の裏返しと見る立場の対立である。
近年、この領域は違う形で戻ってきている。気候正義の議論では、災害と気候変動の影響が女性や貧困層に偏って及ぶことが実証的に示されるようになった。ケアの倫理や脱成長との接続も進んでいる。本質主義を経由せずに、依存と再生産の問題として語り直す道が開かれつつある。
自然を守るのは女性の役目だ、という話ではない。誰の暮らしが真っ先に削られるのかを見る、という話である。
→ケアの倫理(ethics of care) →脱成長(degrowth) →コモン/コモンズ(common / commons) →本質主義・構築主義 →シルヴィア・フェデリーチ
参考文献
- マリア・ミース、ヴァンダナ・シヴァ『エコフェミニズム』(古田睦美・善本裕子訳、緑風出版、1995年)
- キャロリン・マーチャント『自然の死——科学革命と女・エコロジー』(団まりなほか訳、工作舎、1985年)
- 萩原なつ子『市民力による知の創造と発展——身近な環境に関する市民研究の持続的展開』(東信堂、2009年)