女性への抑圧と自然への搾取を、同じ構造から生じるものとして捉える思想と運動。1970年代のフランスで提唱され、1980年代以降、環境運動とフェミニズムの接点で広がった。

主張の骨格はこうである。近代西洋の思考は、文化と自然、精神と身体、男性と女性を対にして、前者を上位に置いてきた。自然を資源として支配することと、女性を管理の対象とすることは、同じ枠組みの表と裏である。だから、環境の問題とジェンダーの問題は切り離せない。

この視点から得られたものは大きい。開発によって水や薪の確保が困難になったとき、その負担を負うのが誰かを可視化したこと。環境政策の決定の場に誰がいないかを問うたこと。これらは現在の気候正義の議論に引き継がれている。

一方で、この思想には強い批判がある。女性は自然に近い、女性は産む性だから生命を大切にする——そうした論法を取ると、女性を身体や自然の側に置き、男性を文化や理性の側に置く構図を、批判するはずだったその構図をそのまま肯定してしまう。日本でも1980年代に論争があり、女性が本来もつ性質としてケアや自然との親和性を語ることは、性別役割分業を新しい言葉で正当化することになる、と批判された。

環境への負荷を減らすことと、それを女性の資質に結びつけることは、別のことである。この区別が失われるとき、エコフェミニズムは自らが批判した枠組みに戻ってしまう。

→気候正義 →性別役割分業 →ケアの倫理

参考文献

  • マリア・ミース、ヴァンダナ・シヴァ『エコフェミニズム』古田睦美・善本裕子訳、新評論、1995年
  • 青木やよひ『フェミニズムとエコロジー』新評論、1986年
  • 上野千鶴子『家父長制と資本制——マルクス主義フェミニズムの地平』岩波書店、1990年

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