1970年代の第二波フェミニズムのなかで形成された潮流。レズビアンであることを、性的指向の問題にとどめず、家父長制に対する政治的な立場として捉えたところに特徴がある。

背景には、運動内部での排除がある。1969年、全米女性機構(NOW)の代表ベティ・フリーダンは、レズビアンの存在が運動の信用を損なうという趣旨の発言をしたと伝えられ、以後この問題は「ラベンダー・メナス(薄紫色の脅威)」と呼ばれた。1970年、この語を逆手に取った活動家たちが同名のTシャツを着て女性会議の壇上を占拠し、「女に同一化する女」と題する文書を配布している。

理論的な中核をなすのが、アドリエンヌ・リッチが1980年に提起した二つの概念である。ひとつは強制的異性愛——異性愛は自然に選ばれるのではなく、それ以外の選択肢を見えなくすることで維持されているという指摘。もうひとつはレズビアン連続体——性的な関係の有無にかかわらず、女性同士の絆や支え合い全体を連続したものとして捉える視点である。

この潮流から、女性だけの出版社、書店、音楽祭、共同体づくりといった実践が生まれた。

1973年、西海岸レズビアン会議

この潮流の内部で何が争われたかを示す出来事として、記録しておくべき事例がある。

1973年4月、ロサンゼルスで開かれた西海岸レズビアン会議。参加者は千二百人を超え、当時最大規模のレズビアンの集まりだった。実行委員の一人であり、演奏者として招かれていたベス・エリオットは、トランス女性のフォークシンガーだった。

会議に先立ち、一部のグループが彼女の参加に抗議するビラを配布した。基調講演者ロビン・モーガンは講演内容を急遽差し替え、エリオットを名指しで非難する。そのうえで、彼女を退去させるかどうかの採決を参加者に求めた。

結果は、三分の二以上が残留に賛成した。(会議を報じた『レズビアン・タイド』誌による。)

しかし退去を求めた側はこの結果を受け入れず、会議の妨害を予告した。エリオットは演奏を行ったが、舞台上で威嚇を受け、同じく出演者だったコメディ・デュオの二人が彼女をかばって壇上に上がり、暴力を受けている。エリオットはその後、会議を去った。

数年後の1977年から79年にかけて、女性だけのレコード会社オリビア・レコードでも同様のことが起きた。音響技師として働いていたトランス女性サンディ・ストーンに対し、外部から排斥の要求とボイコットの圧力がかかる。共同体は彼女を擁護する声明を出したが、圧力は止まず、ストーンは自ら退いた。彼女はのちにこの経験から出発して、トランスジェンダー研究の出発点となる論文を書いている。

**どちらの事例でも、共同体は割れている。**多数は受け入れる側にいたが、排除を求める側が引かなかった。レズビアンフェミニズムという潮流全体がトランスを排除したのではなく、この潮流の内部で対立が起き、そして排除の側が結果的に記憶に残った——それがこの時期の実態である。

批判と、その後

批判は複数の方向から出てきた。性的指向を政治的な選択と見なす発想は、バイセクシュアルの経験を居場所のないものにする。分離の実践は、黒人女性や労働者階級の女性にとって現実的でない場合が多く、コンバヒー・リバー・コレクティブはその点を早くから指摘している。

一方で、リッチの連続体の議論は、ケアの倫理や女性同士の連帯を考える文脈でいま読み直されている。またレズビアンであるトランス女性は当時から存在し、現在も存在する。二つのカテゴリーは排他的ではない。

→ヘテロノーマティビティ →第二波フェミニズム(second-wave feminism) →ラディカル・フェミニズム(radical feminism) →オードリー・ロード →トランス排除(TERF/ジェンダークリティカル)

参考文献

  • アドリエンヌ・リッチ「強制的異性愛とレズビアン存在」(『血、パン、詩。』大島かおり訳、晶文社、1989年 所収)
  • スーザン・ストライカー『トランスジェンダーの歴史——現代アメリカのジェンダー・アイデンティティ』(本間洋平訳、明石書店、2023年)
  • 堀江有里『レズビアン・アイデンティティーズ』(洛北出版、2015年)

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