あるカテゴリーが何によって成り立っているかをめぐる、二つの立場の対。
本質主義は、そのカテゴリーに属するものには生まれつきの共通した中身がある、と考える。ジェンダーでいえば、男性と女性には生物学的に異なる本質があり、そこから役割や適性が導かれる、という見方である。構築主義は逆に、カテゴリーもその中身も、特定の時代と社会のなかで作られ、教育や言語やメディアを通じて繰り返し再生産されてきたものだと考える。
この対を最初に大きく動かしたのがボーヴォワールで、人は女に生まれるのではなく女になるのだと書いた。ジュディス・バトラーはさらに進み、ジェンダーは内面にある何かの表現ではなく、繰り返される振る舞いによって後から実体があるかのように見えてくるものだ——と論じた。
構築主義には、よくある誤読が二つある。ひとつは「構築されたものなら簡単に変えられる」という短絡。制度も身体感覚も長い時間をかけて積み上がっており、意識だけで動くものではない。もうひとつは「構築物なのだから実在しない」という読み方だが、構築されたものは現に人を動かし、傷つけ、生活を規定している。作られたことと、効き目があることは矛盾しない。
一方で、本質主義的な語り方が運動の力になる場面もある。スピヴァクが「戦略的本質主義」と呼んだのは、政治的に声を上げるために、いったん「わたしたち」という主語を仮に立てる身振りのことである。
どちらが正しいかを決める問いではない。**いま、どちらの語り方が誰を助け、誰を排除しているか。**そこを見るための道具である。
→ジュディス・バトラー →シモーヌ・ド・ボーヴォワール →ジェンダー(gender) →トランスジェンダー →インターセクショナリティ(intersectionality)
参考文献
加藤秀一『はじめてのジェンダー論』(有斐閣、2017年)
ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』(竹村和子訳、青土社、1999年/新装版2018年)
イアン・ハッキング『何が社会的に構成されるのか』(出口康夫・久米暁訳、岩波書店、2006年)